学校の授業が終る少し手前で、外はパラパラと雨が降り出していた。
今日の天気予報で言っていた通りになってしまった。
授業が終り、窓辺で空を確認するが、とても止む気配は無かった。
無論、俺はちゃんと傘を持ってきている。だが、滅暗(めつあん)のヤツはきっと持ってきていないだろう。
そんなものは関係無い。
俺は何があってもアイツと同じ傘で帰る事は無い。
もし、あるとしたら————。
「孝輝くん?」
俺、華神孝輝(かがみ こうき)を呼ぶ声がした。
すぐそばには、小さな女の子がやってきていた。
名前は瓜野淳子(うりの じゅんこ)。
俺の一番大事な女の子だ。
もし、俺の傘に入れてあげるとしたら、きっと彼女だけだろう。
「雨降っちゃったね。天気予報聞いていたのになぁ」
淳子ちゃんはペロッと、小さな舌を出した。
その姿に、俺の胸がドキッと高鳴った。
まともに見れなくなった俺は窓の外へ視線を外した。
「か、傘、……忘れたんだ?」
「うん。孝輝くんも?」
鞄の中から折り畳み傘を取り出した。
「俺は持ってきている。良かったら————」
次の言葉を前に、俺は言葉を切った。
淳子ちゃんには双子の涼子(りょうこ)ちゃんがいる。彼女達は不運共有双生児。二人が一定時間離れている
と、意識を失う程に体調を崩してしまう。
——だから、俺と二人だけで帰る事はできないんだ。
「良かったら……二人で使ってくれ」
折り畳み傘を渡すと、淳子ちゃんは「ふゆ?」と首を傾げた。
「もう一本あるの?」
「いや、一本だけ……」
「えぇ〜。いいよぉ、悪いもん」
困ったように俺を見る淳子ちゃん。
やはり彼女は優しい。そう感じる度に、俺は淳子ちゃんを好きになってしまう。
「い、いいんだ。どうせ滅暗のヤツも傘を忘れている。風邪がリンクしないように、互いに早く帰るだけだ」
……そうだ。俺も、彼女達と同様に双子がいる。
名前は華神滅暗(かがみ めつあん)。俺達は彼女達とは違った不運共有双生児だ。
片方に降りかかる不運を、もう片方も受ける事になる。
俺達は生まれてからずっと、そうして生きてきた。
「あ、涼子ちゃんだ」
淳子ちゃんが外を指差すと、涼子ちゃんがいた。
やはり遠目で見ると見分けが付かないくらいそっくりだ。
重そうにゴミ袋を引きずっているのが分かる。
「今日はゴミ当番なんだ。手伝いに行こうかなぁ〜」
彼女達双子は本当に仲が良い。
俺達とは違って…………。
「涼子ちゃーん!」
外で聞き覚えのある声がする。間違い無く滅暗だった。
俺と同じ声なのに、無駄に陽気な声を出す。
それが気に入らない。
アイツと俺の性格は正反対だからだ。だからこそ、俺達は互いを受け入れる事ができない。
「ゴミ当番? 俺も手伝うよ!」
「本当? ありがとう滅暗くん」
滅暗は涼子ちゃんの事が好きだ。
俺達は双子でありながら、双子を好きになっていた。
俺は淳子ちゃんを、滅暗は涼子ちゃんを。
同じ双子でも違う相手を好きになった事。
それだけが唯一、俺達が認め合える事なのかもしれない。
「雨降ってるし、こんなのすぐ終わらせようね!」
気合を入れてゴミ袋を持ち上げる滅暗。
無駄に踏ん張って見せる姿が俺には馬鹿に見えた。
『めっつあーん!』×3
滅暗とよくつるんでいる三人。上杉、吉村、太田が滅暗に向かって走っていくのが見える。
上杉と吉村がふざけあって滅暗に飛び掛った。
どしぃいいんッ!!
「痛ってぇええ!!」
滅暗の背中に蹴りが入ったかと思うと、俺の背中にも痛みがやってきた。体は鍛えているが、さすがに無防備
の状態で受けると違ってくる。
またいつものように、滅暗の不運を俺が受ける事になってしまった。
「学校でイチャイチャするなぁ!」
「俺も彼女が欲しぃ〜!」
「……あ、もう出番終り?」
上杉と吉村と太田はそう言うと、さっさと行ってしまった。
——くそっ。あいつ等、俺と滅暗の体がリンクしてる事を忘れてやがるな。
残された滅暗はその場でフラフラと足踏みをしていた。
「あいつら——わっ、わわぁっ?!」
見た目よりゴミ袋が重いせいか、さっきの三人のせいでバランスを崩す滅暗。
「滅暗くん!」
慌てて滅暗の体を支えようとする涼子ちゃん。
その手が滅暗のズボンに掛かると、どういう訳か滅暗のズボンがずり下がり、アイツは涼子ちゃんの目の前で
パンツを露にしていた。
「ああああ!! りょ、涼子ちゃん?!」
「ご、ご、ごめんなさいっ!」
無論、俺に影響は無い。肉体的な不運では無いし、何より俺はアイツと違って身だしなみはしっかりしている
。ズボンを引っ張られたくらいで脱げはしない。
「えっと、えっとぉ〜……」
涼子ちゃんは言葉が見つからないまま、滅暗にズボンを履かせている。
それはかなり恥ずかしい事だ。
滅暗の冷や汗がリンクしているから俺には分かる。
「ご、ごめんねっ! 滅暗くん!!」
恥ずかしさに耐えられなかったのは涼子ちゃんもだった。慌ててその場から逃げようとする。
「りょ、涼子ちゃん!」
ゴミ袋を放り出し、涼子に手を伸ばす滅暗。
その手が涼子ちゃんに触れた。
そう見えたかと思うと、涼子ちゃんのスカートもずれ落ちてしまった。
滅暗と涼子ちゃんは、その動きを止めた。
互いにパンツを露にしている。
滅暗の鼻から鼻血が出ると、涼子ちゃんはようやくこの状況を理解したらしい。
必死にスカートを持ち上げ、「がるっ」と滅暗を威嚇した。
「滅暗くんのバカァー!」
バチィイイインッ!
強烈な平手が滅暗の頬を引っ叩いた。
イチイチ解説したくも無いが、俺の頬もその痛みと手形でヒリヒリしていた。
「ああ〜リョーコちゃーん!」
涼子ちゃんはそのまま走って行ってしまった。
滅暗は一人、その場に取り残される。
「大変! ごめんね孝輝くん」
俺のそばにいた淳子ちゃんも走って行ってしまった。
残されたのは俺と、窓の外でパンツ丸出しの滅暗。
せっかくの淳子ちゃんとの時間が、あの馬鹿のせいで無くなってしまった。いつもそうだ……。
「画ッピョーン!」
意味も無く画鋲をばら撒き、ショックを表す滅暗。
ふざけているのか本気なのか分からないその行動が、余計に俺の苛立ちを刺激した。
俺と滅暗が不運共有双生児である事よりも、俺と同じ顔をした人間が馬鹿な事をして恥を広める事の方が許せ
ない。
しかもそれが俺に全部返って来る。
いつも……いつもだ。
……こんな事、慣れるはずが無い。
「うわーん! どうしようどうしよう?!」
教室に入ってくるなりのたうち回る滅暗。
馬鹿みたいに、大げさに、いつものように……。
「……………………」
そんなヤツに、俺は何も言葉を掛けてやる気にはならなかった。むしろ怒りを抑えるのに必死だった。
「ああ〜もう! きっと夢だ! 幻だ! 記憶喪失になって全部無かった事にしたいよぉ〜。リョーコちゃーん
!!」
俺と同じ顔をしたコイツが、アホ面で周りの同級生に笑われている。
俺はもう……我慢が利かなかった。
「何やってんだテメェ!」
バキィ!
俺へ痛みが返って来る事も構わず、俺は滅暗をブン殴った。
拳に伝わる衝撃が、俺の頬にも伝わった。
痛くて堪らないが、それ以上にコイツが許せなかった。
「いつもいつも、お前————が?!」
頭が、脳が揺らいだ感覚がした。
立っていられなくなる程のめまいに、俺は膝をついていた。
きっと、またリンクしたんだ。
ブン殴った顔の痛みの次は立ち眩みだ。
つくづく嫌な体質だ。
それでもなんとか立ち上がると、俺は滅暗の胸倉を掴み上げた。
「オイ、滅暗!」
「………………うん?」
キョトンとした顔で俺を見る滅暗。
まるで俺に殴られた意識が無いような顔だ。
俺のパンチが何でもないとでもいうのか、こんな時でもそんな能天気な顔ができる事に、余計に腹が立った。
「テメェ!」
もう一度拳を振り上げると、滅暗の表情が変わった。
「ご、ごめんなさいっ!」
そう言って怯えた目を俺に向けてきた。
そんなセリフも目も、今まで一度だって俺に向けた事は無い。
「ふざけるなっ!」
俺はこんなに真剣に怒っているのに、滅暗はその怒りを返してこない。只管に怯え続けている。
「待って! 孝輝くん!!」
淳子ちゃんの声で俺は我に返った。
「滅暗くん!」
涼子ちゃんは心配そうに滅暗に駆け寄っていた。
この状況、どう見ても一方的なイジメだ。
俺は滅暗を離すと、教室を出る事にした。
「孝輝、くん……」
「……………………」
こんな俺では、淳子ちゃんに会わす顔が無い。
しかし、俺は足を止めた。
「大丈夫だよ涼子ちゃん。たぶん、俺が孝輝を怒らせるような事をしたんだと思う…………」
滅暗が俺を相手に自分の非を認める。
それは今まで一度だって出なかった言葉だ。
滅暗のその表情も、どこか普段のものとは違っている。
その変わりように、涼子ちゃんも気付いたらしい。
「どうしたの滅暗くん?」
「どうもしないよ? ……あ、あれ?! 涼子ちゃんが二人いる?!」
淳子ちゃんを見て、二人交互に指差す滅暗。
——何を言っているんだコイツは?
淳子ちゃんと涼子ちゃんは確かに似ているが、二人が揃っている時に間違えたりはしない。少なくとも、俺達
だけはそれが許されないはずだった。
「私、淳子よ?」
「淳子、ちゃん……? えっと……二人は双子?」
滅暗はそんな当たり前の事を口にした。
「記憶が混乱しているのか、滅暗? まさか、記憶喪失?!」
「記憶喪失……俺が?」
しきりに何かを思い出そうとする滅暗。
だが、その表情から困惑の色は消えない。
「淳子ちゃんの事、本当に覚えてないの?」
「涼子ちゃんは覚えているのに?」
彼女達は並んで滅暗の前に立った。
しかし、滅暗の反応は初めて双子を目の当たりにした挙動だった。
「……う、うん。ごめんね」
涼子ちゃんを覚えていて、淳子ちゃんを覚えていない。
それは滅暗の想いが涼子ちゃんに向けられていた証拠なのかもしれない。それはいい。だが、問題はそこじゃ
ない。
俺と滅暗は不運共有双生児だ。
滅暗が記憶喪失なら、俺も同じ状態になるはずだ。
それなのに、滅暗だけが記憶喪失になっている。
こんな事は初めてだ。
「孝輝くん……滅暗くん大丈夫かな?」
「私、いつもの滅暗くんの方がいい……」
淳子ちゃんも涼子ちゃんも、親身になって滅暗の身を案じている。
こうなってしまったのは俺のせいだ。
コイツに対しての罪悪感は無いが、二人にこんな顔をさせてしまった事に胸が痛んだ。
俺は内心、自分の不幸を呪った。
飽きる事無く着いて回る、不幸という名のトラブル。それを、二人分背負っているようなもの……。
「……大丈夫だ。俺達の父親は医者だから」
俺達の父親、華神 血祥狼(かがみ けっしょう)は医者だ。あまり関わりたくないのが本音だが……。
この状況。なりふり構ってはいられない。
「おい、行くぞ滅暗」
「えっ……うん」
俺の呼び掛けに素直に返事をする滅暗。
いつもの『命令するな!』その言葉が無い。
それが俺を嫌な気分にさせていた……。
×××
「馬鹿やってるから、そうなるんだ」
「……はぁ、すいません」
「余計な世話ばかりかけさせる」
「うん……ごめんね」
病院へ行く途中、滅暗はずっとこんな感じだった。
なんというか、本当に滅暗かと疑ってしまうほどに無害で素直だ。
俺の事は覚えているくせに、俺を嫌っていない。そういう態度が少しも見られない。常にいがみ合ってきた俺
としては、今の滅暗は妙に疲れる。
——滅暗が普段からこうなら……俺達はもっと上手くやっていけたのだろうか。
そんな考えが浮かんでくる。
このままなら、俺達はやり直せるのかもしれない。
今の素直な滅暗なら馬鹿なマネはしないだろうし、俺といがみ合う事も無い。
余計なケガをリンクする事も無くなるし、それですら互いに許しあえるかもしれない。
——けど、本当にそれでいいのか……?
そんなもしもに答えなんて出るはずがなかった。
俺達は病院に着くと、真っ先に父親の所へ向かった。
×××
「これは治らない!」
俺達にそう告げたのは白衣を身に纏った父親だった。
こっちはまじめだというのに、即答しやがった。
「オイッ、まじめに診察しろよ!」
「…………お父さん?」
いきり立つ俺とは正反対に、これが父親かと呆然とする滅暗。
「そんなに滅暗が心配か? なに、軽い冗談だ」
そう言って舌を出して尻を叩いてみせる。その姿のどこが軽い冗談なのか理解できない。
親父はいつもこれだ。ハッキリ言って滅暗よりも達が悪い。
できる事なら関わりたくない人間だ。
「こんなもの、私の薬に掛かればどうという事は無い!」
自慢げにそう言うと、机の引出しから軟膏薬を取り出し、俺に投げ渡した。
記憶喪失が軟膏薬で治ると言う辺りメチャクチャな医者だ。
しかし、親父の医者としての腕前だけは確かだ。
薬の効果は期待していいはず————。
「…………あ?」
俺は薬に書かれた文字に目が言った。『スグワスレール』と書いてある。
「テメェ! 逆効果じゃないかっ!」
薬を親父に投げつけると、親父は簡単に受け止めた。
「フッ、お茶目なジョークじゃないか。『スグナオール』なら確かここに…………ん?」
机の引出しから薬を探す親父。次に戸棚を探し始めた。
どうやら見当たらないらしい。
何やら考え始めると、そこでポンッ! と手を打った。
「そうだ。尾崎の所へ全部売ってしまったんだ。あまりに破格だったからなぁ。いや〜滅暗には気の毒だったな
」
そう言いながらも、全く気の毒そうな顔をしていない。
人の気も知らないこんな親父に、だんだん腹が立ってきた。
「フフッ、そんな顔をするな。この手の症状は自然に回復するか、同じ衝撃で元に戻るものと決まっている」
結局、今までのは何だったんだと思いたくなるような事を口にする。
「……最初からそう言えよ」
「久しぶりに親子の団欒くらいしてもいいだろう?」
これのどこが団欒だ。俺達を前にふざけていただけじゃないか。
「……フン。滅暗のために来たのだろう? 少しは成長したかと思っていたんだがな」
時折見せる父親らしい目。
それすら俺には本気なのか冗談なのか分からなかった。
「それより、なぜ滅暗の記憶喪失が俺にリンクしないんだ? 無意識のケガも、病気も、虫歯だってリンクする
のに……なぜ、俺に影響しない?」
あの時、確かに脳が揺れた感覚があった。
俺が滅暗を殴ったからだ。滅暗が記憶喪失になったなら、同時に俺も記憶喪失になるはずなんだ。
これまでずっとそうだった。
いつもでも、どんな時も、俺は滅暗の、滅暗は俺の不運をうんざりする程リンクしていた。それがなぜ……?
「単純だ。無意識に記憶を無くしたのでは無いのだろう? 記憶が無くなる前後に、滅暗がそれを望んでいたの
なら、それは滅暗にとって不運では無い。不運で無ければリンクはしないという事だ」
記憶喪失になる事を望んでいた。だからリンクしないというのか?
確かに、滅暗は記憶が無くなる前にそんな事を口にしていた。記憶を失う直前に、それを望んでいたのなら…
…。
「違う! あんなものは滅暗の大げさな言葉だ! いつもの事じゃないか。コイツはいつもそうなんだ!」
それは俺が一番よく分かっている。
冗談でそう言っても、本気で記憶が無くなればいいなんて思っているはずがない。
それなのに、今の滅暗は記憶を失った事など何でもないような顔をする。
「滅暗は……そんなヤツじゃない」
「だが、現に滅暗は記憶を失くしている。それは事実だ」
親父は冷たくそう言い放った。自分の息子が置かれている状況に、まるで興味が無いかのように。
俺は滅暗の胸倉を掴んだ。
「オイッ! 本当は覚えているんだろう?! うんざりする程リンクしてきたんだ! お前が記憶喪失なら、俺
も記憶喪失のはずなんだ!」
「…………すいません」
俺は滅暗を突き飛ばした。
こんなの……滅暗じゃない。
「……孝輝。今のお前は滅暗と不運を共有したがっているように見えるが……?」
「そんな訳無い! こんな体質を憎まなかった事は無い!」
そうだ……いつだって嫌だった。
無関係な傷を負うだけじゃない。俺には自分自身を傷つける権利すら無いんだ。
そんな体質が憎かった。何度も何度も呪った。
「まるで分かってないな……もし、お前達が共有していたのが幸運だったとしたら、お前達は今よりもっと不幸
だっただろう。自分のものでは無い幸運を、自分のものだと喜んでしまう。それは虚しいだけ。そして幸運がリ
ンクしないよう、不幸だけを探して生きていく事になるのだからな……」
親父はゆっくりとイスに腰掛けると、腕を組んだ。
その目は本気で俺達に向けられているように見えた。
「だが、それでも人はその幸運も不運も、他人と分かち合いたいと思う。なぜか分かるか?」
俺は首を振った。
そんなもの、常に不運をリンクしている俺には分かるはずが無い。
「そこに愛情、もしくは絆があるからだ。大事な者の幸運や不幸を、お前は見たくないなんて思うか?」
もし、淳子ちゃんが涙を流すなら、その悲しみを、俺は分かち合いたいと思うだろう。喜びもそうだ。
だが、現実は滅暗と不幸を分かち合っている。
そこにあるのは何だ?
なぜ、滅暗なんだ?
双子だから、か……?
「……なぜ、俺は滅暗とリンクしている?」
俺の質問に親父は答えない。
変わりにニヤリと笑って見せていた。
「それはお前が見つけろ。ただ、一つ言える事がある」
「……何だ?」
「不運をリンクする相手が華神滅暗で無ければ、華神孝輝で無ければ、……お前達はとっくに破滅していただろ
う」
親父が語ったのは破滅への例え話。
それなのに、親父は誇らしげにそれを語った。
そして俺の心のどこかで、なんとなく頷けていた。
「……滅暗の記憶を戻す。このままじゃいられない」
「フッ。互いに柄にも無く長く喋り過ぎたようだな……」
親父は俺の胸倉を掴むと、俺の頭を殴った。
想像以上のダメージに膝を付くと、ダメージをリンクした滅暗も同時に膝を付いていた。
「……テメェ、どういうつもりだ?!」
親父は卑しく笑うと、俺と滅暗を交互に指差した。
「滅暗の記憶を戻すために衝撃を与えてやったのだ。どっちを殴っても痛みは同じだからな」
医者とも父親とも思えない言葉。
だが、それでこそ憎むべき男、華神血祥狼だ。
「忘れたのなら思い出させてやろう。お前達の真の不幸は不運共有などでは無い。この華神血祥狼が父親だとい
う事だ!」
「……俺も一つ思い出した。アンタが大ッ嫌いだって事を!」
そうだというのに、俺は無意識に笑っていた。
いつもより拳に力がこもる。
俺を殴れば滅暗の記憶が戻る。……だが、ただ殴られるだけのつもりはない。
「……いくぞ!」
迷いも躊躇いも無く、俺は親父に飛び掛った。
振り上げた拳を親父に向かって打ち放つ。
俺のパンチを避けるでも受けるでも無く、親父はいつの間にか天井から伸びていた一本のヒモを引っ張った。
「二名様お帰りでございまーす。ワッハッハッハッ!」
パカッ! という間抜けな効果音と共に、足元の床がパックリと開いた。
俺と滅暗はまるで水洗便所のようにグルグルと回り、水で流されていた。
その光景を親父は鼻をほじり眺めていた。
——本当に病院なのか。ここは?!
どういう構造なのか理解できぬまま、俺達は外へ放り出された。
外はもうすっかり晴れているのに、俺達はずぶ濡れだ。
「くそっ、何なんだあの親父は!」
本気なのかそうじゃないのか……全く分からない。
「イタタタ……酷い目にあった」
滅暗はというと、やはり記憶は戻っていない。それはそうだ。同じ衝撃を与えれば治ると言ったのは親父だ。
だから、親父に殴られても意味が無い。俺が滅暗を殴らなければならないんだ。
例えその痛みが俺に返って来るとしても……。
「……立てよ、滅暗……」
「う、うん……」
滅暗は俺に言われるがまま、立ち上がった。
まるで、自分の意思を持っていないかのようだった。
今の滅暗は俺に言われるがまま、俺の思うままに行動してくれる。
普段の滅暗ならありえない事だ。
このままの滅暗なら、きっと今までのように余計な不運を被る事も少ないだろう。だが————。
『不運をリンクする相手が華神滅暗で無ければ、華神孝輝で無ければ、……お前達はとっくに破滅していただろ
う』
親父の言葉が思い出される。
どういう訳か、俺はその意見に反対では無かった。いつもなら、それが気に入らない事のはずなのに……。
「……滅暗。歯を食いしばれ」
俺が何をしようとしているのか、分かるはずだ。
それなのに、滅暗は黙って俺に従った。
「孝輝は……俺が嫌いか?」
「ああ。今のお前の方がマシだと思えるくらいな」
「それでも、記憶を戻すのか……?」
「ああ。俺の手で元の、大嫌いなお前に戻してやる」
滅暗は記憶が無くなって初めて笑った。
それはいつものアイツがしている笑顔だった。
「……嬉しいよ。なぜだか分からないけど」
「そうか……」
滅暗はそれっきり口を開かなくなった。
それは覚悟を決めたという証。
なら俺は……それに応えるだけだ。
ギュッと、力強く拳を握った。
俺は俺と同じ姿をした人間を、同じ痛みが返ってくるのを承知で殴る。
それは俺自身を殴りつける事に等しい。
ただ一つ違うのは、俺の中にあるのは怒りじゃないという事だ。あの時、滅暗を殴りつけた時とは違う。
——俺は……俺を取り戻すために、滅暗を取り戻すのかもしれない。
俺は傷つけられる事も、自らの手で傷つく事も許されない体だった。
けど、一つだけ無条件で許される事があった。
——それは、滅暗の傷を自分の体に刻む事だ。
「行くぞ、滅暗!」
滅暗の記憶を奪った時と同じように、俺は滅暗に向けて拳を振るった。
バキィ!
滅暗は大きく吹っ飛んだ。
その衝撃が俺自身にも返ってくる。
それはあの時と同じ、脳が揺らいだ感覚。
とても立ってはいられず、その場に倒れこんでしまった。
「滅、暗……」
「……孝、輝」
頭を押さえて立ち上がる滅暗。
俺もフラフラする頭を堪えて立ち上がった。
「…………滅暗」
「孝輝…………」
そこにいたのは紛れも無く、俺と同じ顔をした馬鹿だった。
殴られた事を覚えているのか、俺に敵意を向けてくるくせに、妙に嬉しそうに笑いやがる。
「テメェ、孝輝。マジで殴りやがったなぁ〜?」
「本気じゃない。俺の顔に傷ができるからな」
俺は自分の顔を指差してそう言った。
「確かに、全然痛く無ぇや。だってよぉ————」
「フン。やせ我慢するな。なぜなら————」
『俺の方が強いからなっ!』
俺達は互いに引く事無く、そう言い放った。
——やはり気に入らない……。
華神血祥狼を父に持った事。
俺と同じ顔をしたヤツが馬鹿をやる事。
その馬鹿の痛みをリンクしなければならない事。
俺は俺のために滅暗の記憶を取り戻したんだ。
淳子ちゃんや涼子ちゃんに心配を掛けたくないからだ。
馬鹿が戻ってきても、嬉しくなんか……無いっ!
いつの間にか気に入らないものが増えていた。
もう一人の俺と同じ顔で笑う、俺自身の事だ。
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